将来方程式なんて使わない!? ~もっと大切なことがあるって言うじゃない?~
- 目 次 -
-はじめに- 1. 小学校教育 2.“ゆとり教育”の本質 3.勉強など出来なくてもいい……? 4.壊れた脳 5.「勉強なんて役に立たない」と言う人
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-はじめに-
勉強をしない子に、なぜ勉強しないのか聞くと「勉強のしかたが分かりません」と答える
子が多い。「やりかたが分からないからしない」のだと言う。本当だろうか。
昔こんな話を聞いたことがある。
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ある人が尊敬する先輩に尋ねた。
「先輩。私は将来小説家になりたいと思っています。どうでしょうか」
その人は、先輩ならきっと「ああ。いいじゃないか。頑張りなさい」と言って励ましてくれる
と思っていた。
ところが意に反して先輩の言葉は厳しかった。
「キミは小説家にはなれない。今のうちにあきらめて、公務員にでもなりなさい」
その人はショックを受けてこう言った。
「なぜそんなひどいことを言うのですか。励ましてくれると思っていたのに。私には素質が
ないということでしょうか」
すると先輩はこう言った。
「素質があるかどうかは分からない。だがキミの『やる気』がないことなら分かる。『気持
ち』がないのなら、何をやってもダメだ」
その人は驚いて言った。
「私は『やる気』にあふれています。先輩には私の気持ちが分かっていません」
すると先輩はこう言った。
「ではなぜ、まだ書き始めていないのか。本当にやる気があるのなら、『先輩、将来小説
家になりたいと思って、この小説を書いてみました。読んでみて下さい。私は小説家になれ
るでしょうか』と聞いてくるはずだ。だがキミは書いてみる前から、小説家になる『妄想』をし
ている。その程度の『気持ち』では、ものになるはずがない」
その人は返す言葉がなかった……。
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勉強でも、本当にやる気があるのなら、やり方が分からなくてもまずは始めているはず
だ。たとえ我流だとしても、がむしゃらにやっているはず。
そうでないのなら、ただの“言いわけ”だ。そんな人に『勉強のしかた』を教えてあげても、
すぐにまたやらなくなる。そして相変わらず「やり方がわからない」と繰り返す。
「生きていくのに『方程式』なんて必要ない」という類のセリフもよく聞く。本当にそうだろう
か。
本編で一緒に考えていきたい。
1.小学校教育
『ゆとり教育』という言葉が使われるようになってずいぶん経つ。
だが、この言葉が出現するまでだって、小学校教育はずいぶんと“ゆとり教育”だったよ
うに思う。
今も昔も、小学生までは学力が表面化しにくいのではないか。なにしろ、通知表を見ても
イマイチ学力程度が判然としないし、そもそも小学校のテスト自体が非常に易しく作られて
いるから、周りの大人も子供自身でさえ“学力の絶対的な不足”を自覚せぬままに中学に
上がってしまうこともあるだろう。
さて、現在の小学校教育がいかに“ゆとり”となっているかを、実際の例を挙げて考えて
みたいと思う。
例えばテスト。
ある小学校の生徒の話によると、テストは「教科書を見ながらやってよい」ことがあるとい
う。
教科書どころか、全く同じ問題をプリントで事前にやっておいて(それだけでもテストの意
味をなさない気がするが)、「そのプリントを見ながらテストを受けてよい」こともあるそうだ。
担任教師がそう言うのだという。
これで、テストが出来なくて“苦痛”を感じる子供がいなくなる。万々歳だ。
みんな100点満点。
徒競走でも、みんなで手をつないでゴール!みんな一等賞だ。ビリで泣く子もいない。こ
れぞ平等だ。
だが、これは『逆差別』ではないか。
足の速い子、学力の高い子……というような子たちは、さぞかし落胆することだろう。
こんなことをやっていては、そのうちにキチンと勉強する子も、何かの分野で頑張ろうと
する子もいなくなってしまうのではないか。
先のテスト。これにはカラクリがあるような気がしてならない。
つまりこういうことだ。
小学5年生、6年生の中で、基礎学力がほとんど身についていない子供の数は年々増え
ているという。
これが“ゆとり”の成果(?)かどうかは別にして、そのような生徒は教師にとって『お荷物』
だ。
新しい学習内容にスムーズに入れないし、だからといって放課後に補習をするのも手間
がかかる。「分かる」まで、ましてや「出来る」まで教えるのは、大変な『重労働』だ。
赤の他人の、それも小学校を卒業してくれれば何の関係もなくなる子のために、給料も
変わらないのになぜそんな重労働をしなくてはならないのかと考える『サラリーマン教師』
もいるだろう。
だが、そのままテストをすれば、低い点数を取る生徒の数が多くなり、「理解できていな
いのに先に進むのか!?」「先生の教え方に問題はないのか!?」などと保護者からのク
レームが増えてくる。
かといって、学習指導要領によるカリキュラム通りに進めないと、今度は学校側から文
句を言われる。
では、どうするか。
その答えが前述の“テスト”ではないか。
信じ難い話だが、臭いものにはフタとばかりに低学力の生徒の顕在化を避け、自らの指
導責任からも放課後の補習という煩わしさからも保護者のクレームからも逃避して、ことな
かれ主義の自己保身を図る小学校教師が実際にいるということになる。
もちろん全ての教師がこうだ、などと言うつもりは毛頭ない。
しかし、「給料さえもらえれば子供のことなどどうでもよい」「自分の人生にはなんら関わり
ない」……そんなサラリーマン気取りの教師が“ゆとり教育”の陰に隠れてまかり通ってい
るというのも事実のようだ。
前述の教師などは、「テストとは何か」を全く理解していないのではなかろうか。
「テストがあるから、子供が不幸になる。かわいそうだ」などと、感情論に終始する大人も
いるが、本質を理解しようとせず、表面を『ご都合主義』的に解釈していては判断を誤る。
テストは未修得の部分を発見し、復習等を通して取りこぼしをなくすためにある(入試は
序列をつけ、合格者を選別するためのものだが)。小学校のテストでこの目的を果たさな
いのなら、何のためのテストか。
実際、子供たちに『100点満点のテスト』と全く同じ問題を出して、本当にもう一度100点
がとれるのだろうか。50点60点、場合によってはそれ以下の点数にしかならないのなら、
教育の本質が抜けてしまっていることにならないか。
あらかじめ渡されたプリントを見ながらテスト……。こんなのはテストではなく、ただの『書
写』だと思うのだが。
2.“ゆとり教育”の本質
さて、中学入学は一つのターニングポイントで、子供の学力がやっと表面化してくる。定
期テストがあるからだ。
これは小学生の時のテストとは質が違う。公立中学の定期テストは易しいと言われる
が、それでも小学生の時に比べれば大きく違うのではないかと思う。
子供が学力不足だった場合、親がそのことにやっと気づいて途端に慌て出すのにそう時
間はかからない。
中学での勉強は、小学校での基礎学力なしには成り立たないからだ。
分数や小数の計算が出来ないのに方程式など解けないし、漢字が書けない読めないで
は国語だけでなく、数学の文章題、理科や社会だってできるはずがない。
ところが、昨今、信じ難い話なのだが『九九が出来ない中学生が増えている』という。まっ
たく出来ないわけではないが、九九をしょっちゅう間違えたり時間がかかったり、といった
中学生が増えているというのだ。こうなると授業など聞いても訳が分からない。
これも“ゆとり”の影響なのだろうか。そもそも履修内容を習得していてもいなくても、小
学校は自動的に卒業できてしまうのだから、こういうこともあり得る。
ところで『ゆとり教育』の“理念”は以下のようなものだという。
“知識の詰め込みではなく、自分で考え行動する力を育てる”
“個性を伸ばす”
『詰め込み教育』と批判され、その反省の弁とも受け取れるこの文を読んで、「なるほど
よい考えだ」「すばらしい教育方針だ」などと思っている人がどれほどいるだろうか。もしか
したら多くの人が、この理念に賛同し共感しているのかもしれない。
確かに表面的には正しく、耳あたりの良い言葉の羅列は聞く者をどこまでも心地よく
いざなうかもしれない。
だが、先にも述べたように、言葉尻だけのご都合主義に簡単に共感していてはダメ
だ。
なにしろ、ともすれば我々は知らず知らずのうちに、『考えてるつもり』でも脳は働いてい
ない『思考停止』状態に陥っていることがよくあるのだ。
私はこの理念、矛盾だらけでとても賛同できる内容ではないと確信している。
私の好きな『将棋』を例に挙げて、これを説明してみたい。
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将棋というのは、ある一定のルールに基づいて行われるゲームであるのは誰でもご存じ
だろう。駒の動かし方を覚えたら「さあ、やってみよう」となる。
さて初手だが、いったい何通りの動かし方があるだろうか。駒は全部で20個。しかし桂
馬と角は自分の駒が邪魔して動けない。
答えは30通り。動かそうと思えば初手から30通りの動かし方があるわけだ。手が進んで
くれば、それこそ100通り以上の手がある場合もある。その中で最善手は2通り(2六歩か
7六歩)。次善手、次々善手を含めても、正しい手は3、4通りしかない。
ところが、ルールを覚えたばかりの初心者同士が将棋をすると、それこそ好き勝手に駒
を動かしていく。その先の展開など考えない(もしくは考えられない)。何十通り何百通りの
手の中から、「この駒ここにいける?」などと言いながら、とりあえず駒を動かしていく。
時には『長く考える』場合もあるが、その結果指された手というのは、「なんで?」と目を
疑う悪手である場合がほとんど。
そしてたいてい熱戦(?)となる。一体どちらが勝つのか最後まで分からない。そして『偶
然』に詰みが見つかって終了。何度やってもたいていこうなる。
ところが一方が初心者で一方が上級者なら、勝負はあっという間に決する。5分ももてば
良い方だろうか。
これはどういう訳か。
初心者は『悪手』を連発するからだ。
初心者同士ならば、お互いに『悪手』を連発するので、一つの『悪手』がそのまま負けに
つながることはない。
では、勝負はどのように決するか。それは『偶然』である。先にも述べたように『偶然』に
詰みが見つかって、それで終了。好き勝手に駒を動かしている間は、どんなに考えようと、
考えずに“勘”に頼ろうと同じこと。私も昔『下手な考え休むに似たり』と、祖父によく言われ
たものだ。(祖父は将棋がとても強かった)
だが、一方が上級者なら話は別だ。一つの『悪手』は即負けを意味する。ましてや『悪
手』の連発など、結果は“惨敗”でしかない。
ここまで言えば、何が言いたいか分かってきただろうか。
このままもう少し話を進めてみる。
初手の30通りの中に“良い手”は何通りあるだろうか。“良い手”とは“意味のある手”と
いうことである。
最善手は先にも述べたように、“2六歩”と“7六歩”の2通り。次善手としてあと1、2手(9
六歩など)あるが、それ以外は全て『悪手』ということになる。初手からこうであるから、十手
二十手と勘に頼って最善手や次善手を指し続けることは、確率的に不可能である。たとえ
「考えた」としても、正しい知識の裏打ちのない考えは“勘”と同じことだ。『考えたつもり』で
しかない。
『天動説』をもとに“宇宙の謎”を解き明かそうといくら「考え」ても、決して正しい結論に至
らないのと同じことだ。考えるためには、『正しい情報・知識』が不可欠である。
では、『悪手』とは何か。
例えば、飛車を横に一つ動かす。相手が何か指したら、今度はその飛車をもとの位置に
戻す。次は金を前に一つ動かして、右に動かして、また左に動かして、下に動かす。これ
で駒は、最初に並べてあった状態に戻ったことになる。こんなのは、もちろんルール上何
も問題はないが、果たして“意味のある手”と言えるだろうか。
このような手は意味がない、すなわち負けにつながる手(=悪手)である。その間、相手
は着々と駒組みを進め、戦闘態勢に入っているのだ。いざ駒がぶつかれば、どちらが勝
つか言うまでもない。ましてや『お手伝い』と呼ばれる、相手の攻撃を助ける手は『悪手中
の悪手』だ。
実際、初心者が指す手というのは、意味のある手がほとんどない。もちろん、やっている
本人は意味があると思って真剣に指している場合もあるが、『下手な考え休むに似たり』
で、実際には『考えているつもり』でしかない。
それはなぜか。
正しい『知識』がないからである。
将棋なら“定石”や“手筋”と呼ばれるものだ。
“定石”とは、序盤から中盤にかけての指し方。戦術によって何通りもの定石がある。
“手筋”とは、ある場面においての攻め方・守り方のテクニック。
これらの『知識』がある者とない者とが勝負したって、はなから勝負にならない。
「定石なんて、知らねーよ。俺には俺のやり方があるんだ」「王様を囲うなんて、自分のポ
リシーに合わない」「『しばり』って何。ただの『待ち伏せ』かい。卑怯者め」などと言って、知
識習得を拒否し「自分勝手流(?)」を貫こうとする人がいるが、それはちょうど『九九も知ら
ないのに中学の方程式を解こうとする』ようなものだ。
「自分なりに一生懸命考えた」(と言い訳をする人が多い)としても、正解など導けるはず
がない。多くの時間をかけて「やっと最善手を発見した!」としても、それはたいていの場
合とっくの昔に定石化された手順だったりするのだ。何世代もの先人の知恵が結集したも
のが『定石』なのだから、それも当然の話だ。
もちろんプロレベルになれば、敢えて定石を外してきたりする。序盤は定石通りでも肝心
なところで“新手”を指したりするのだ。新手とは、プロが事前に研究・分析して導き出し
た、「新しい正解手」といったところだろうか。もちろん“不発”に終わる新手も多くある。
またプロは自分オリジナルの定石を開発したりもする。「塚田スペシャル」や最近では
「藤井システム」など。しかし言うまでもなく、これらは“定石”や“手筋”をまず覚えて基礎力
をつけ、それから何百回、何千回、いや何万回と実戦をこなしてプロとなった者だからこそ
できることで、定石を知らない初心者が「好き勝手に」やるのとは根本的にわけが違う。
ピカソの絵に何億もの値がつくのに対し、幼稚園児が自由に描いた絵を「すばらしい」
「芸術だ」と褒めたとしても、お金を出してまで求めようという人はいないのと同じことだ。
『守・破・離』という言葉があるが、『守』を経てない人が「勝手に」やったものに真の価値
はない。
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これを先の“ゆとり教育”の理念と照らし合わせてみる。
-『知識』を与えるのではなく、『考える力』を育てる……?-
だが、考えるためにはまず正しい知識が必要なのだ。正しい知識をもとにして考えるか
ら、ただしい結論が導き出せる。知識もなくただやみくもに考えるのなら、それは『勘に頼
る』のと同じことであり、整合性のある結論など出てくるはずもない。
-生徒にまず考えさせる?-
まず正しい知識を与えて、その後に考えさせるのなら分かる。だが、知識はどんどん“削
減”して”ゆとり”と宣まい、知識不足だけどまあ気にせず「さあ、考えよう」などというのは
無責任極まりないのではないか。
さらに「生徒が考えた結果出した結論なら、正解も不正解もない。全部正解」???
生徒はやりたい放題だ。何をやっても『考えた結果』なら、文句も言われない。これでは
まるで「はだかの王様」だ。
教育でやってはいけないことの一つに「子供を王様にすること」とは、かの百マス計算で
有名な蔭山校長の言葉だが、学校現場をこんな初歩的間違いに誘ってよいものだろう
か。
「考えたつもり」の結果出した判断・結論にそれほどの整合性があるはずもないが、「そ
れでいいんだ」「考えることが大事だ」などと言われる。中にはいい加減に考えて決めた生
徒もいようが、それでも「それでいい」「よく考えた」などと褒められる。“褒める”ことが「ブー
ム」になってからはなおさらだ。「子供は褒めれば伸びる」と表面的な一元論に終始し、勘
違いしている教師や親や自称識者がいるが、そんな単純ならとっくの昔にすべての問題は
解決しているはずである。
さらに、「個性を伸ばす」のも理念の一つだという。
「人には誰でも何か一つは長所があって、それを伸ばすことが大事だ」というのだ。
しかし、そう言いながら「みんなが同じであることが平等だ。差をつけてはいけない。運動
会の徒競走も、みんなで手をつないでゴールしましょう。ビリの人が傷つかないように。そ
れが平等だ」などとも言う。
『足が速い』『遅い』というのも『個性』なのではないか?また、ビリで傷ついたとしても、
「じゃあ、勉強では頑張るぞ」とか「速くなるために特訓しよう」などと考える機会すら奪って
いるのだとしたら、『個性』など伸びるはずもない。
こんなのは実は“没個性”教育であって、国民みんなが個性などない、画一的で誰もが
似たり寄ったり、しかも思考力の欠如した“ただのコマ”、その方が支配しやすいという、専
制君主態勢にとって最も都合の良い状態を作り出すだけのものでしかないのではないか。
そうだとすると、これは全く危険な“教育”と言わざるを得ない。
これは、徳川幕府が農民に『読み・書き・そろばん』の教育を受けてほしくなかったのと同
じことだ。かつて『識字率』が向上した農民が“楠木正成”を中心に団結して、鎌倉幕府滅
亡のきっかけを作った例もある。
農民は、ただ米を作ってさえいればよい。“個性”など不要。絞れるだけ絞りとって、文句
も言わせない。そのために“教育”は『百害あって一利なし』だったわけだ。
戦後、国民皆が基礎教育を無料で受けられる制度が出来たことは大変すばらしいことで
ある。にもかかわらず、今度は「何のために勉強しなければならないのか」「勉強なんてで
きなくても生きていける」などと言って逃避しようとする者が出てくる。その割合が近年特に
増えてきたという。なぜか?
それは“そう思う親”が増えてきたからではないか。
日本全体が経済的に恵まれてくると、皆とりあえず食べてはいけるようになる。あまり勉
強をしてこなかったような人が、実際に生きていけている例も数多く見られる。そのような
環境の中で、親が無責任に「勉強など生きる上で役に立たない」「もっと大切なことがある」
などと子供の前で平気で言うようになると、そう考える子供の数が増えてきても不思議では
ない。
昨今、引きこもりの若者の教は激増しているという。子供の時の『ラク』は、結局あとに
なって、本人が何倍ものツケとして背負わなければならない。その荷の重さに耐えられくな
ると、もはや社会に出ることも進学することもままならなくなるのである。
「長所を伸ばす」と言うのだって疑問が残る。はたして子供の時に「これが君の長所でこ
れが短所。だからこれを伸ばしていこう」などと決めつけられるものだろうか。成長の過程
で、短所だと思われていた分野で急成長するかもしれないし、長所が失速することもある。
そもそも『誰が』子供たちの長所や短所を判断し決めるのか。教師?それとも親?はなは
だ疑問なことだらけだ。子供本人に『自己申告』させる?それこそ最も危険な行為ではな
いか。それらを正しく判断できる情報も知識も人生経験もない子供に判断を任せるなど、
怠慢と責任放棄以外の何物でもないのではないか。(ただのアンケートとか、自己分析の
力を育てるとか、そのような目的で自分の長所・短所を書かせるというのなら問題ない
が……)
一つ一つを見ると正しいようでも、それらを一まとめにしてみると何とも矛盾だらけのも
のが出来上がるというのを『誤謬の集成』というが、今の学校現場はまさに『誤謬の集成』
ではないか。
もっとも一つ一つを見ても「どこかおかしい」と感じてしまうものが多いので、まとめると余
計に変なものに仕上がっている。
3.勉強など出来なくてもいい……?
個性の話が出たので、もう一つ述べさせて頂きたい。
テレビを見ていると「勉強ができないのも、スポーツができないのも個性の一つなんです
よ。それはちょうど背が高いとか髪が黒いとかいうのと同じなんですよ。だから、できなくて
も『そのままで』いいんです。無理することはないんです。子供につらい思いをさせてはい
けません」などと、したり顔で言うコメンテーターがいる。
そして、そう言われて「うん、なるほど。その通りだ」などと、深く考えもせず簡単に共感し
てしまう人もいる。
バカなことを言ってもらっては困る!
背が高いのも髪が黒いのも、多分に遺伝子の影響だ。髪など生まれながらに黒かった
り、ブロンドだったりするのであって、同じ次元で話などできるはずがない。
生まれながらに勉強ができたりスポーツができたりするわけではない。それらは本人の
努力によって変えていけるものなのだから、個性には違いないけれど、髪や肌の色な
どと同列に話せるものでは決してあり得ない。
よく「外見で人を判断してはいけない」と言われる。だが一口に「外見」と言っても2種類
ある。
一つは「自分の意思によらない外見」、もう一つは「自分の意思による外見」。
この手の話で童話などに登場するのは「貧乏な外見をした老人」。この老人が実は神様
で、冷たく追い返した金持ちには罰を、温かくもてなした貧乏人には財産を与えるというよ
うな話で、「外見で人を判断しないように」と教える。
なるほど、この場合は確かに納得がいく。なぜなら(もしこの老人が神様でなく、普通の人
だったなら)、この老人のみすぼらしい外見は貧乏によるものであって、自分の意思ではな
い。とすれば、この老人の心の中まで推し量る材料にはなりえないから、外見で内面を推
測するのは不可能だ。
だが「自分の意思による外見」ではどうだろう。同じだろうか。
「自分の意思」というのがそもそもその人の内面なのだから、「内面による外見」と言いか
えてもいいはずである。ということはこの場合、「外見から内面を推測する」ことは十分に
可能ではないのか。
自分の意思による髪型や色、着ている服(場合によっては『しゃべり方や態度』も、あ
る意味『外見』と言えるかもしれない)……、などは内面を推し量るに十分な材料と言える
のではないか。
制服のように『強制された』外見と、私服のように『自分の意思による』外見とを一緒くた
にするのは間違いだ。
前述のコメンテーターは、これと同じ間違いをしている。
イチローだって、生まれながらにスター選手だったわけではない。子供の時から人並み
以上の努力をしてきたのだ。もちろんその努力を支える周囲の協力があったことは間違い
ない。だがそれもまた、本人の努力があればこその話なのである。
このようなことを言うと、こう反論してくる人がいた。
「努力が実る人と実らない人がいるのよ。DNAの出来が違うの。生まれながらに、努力
してもダメな人もいるの。私みたいに。そのことが分かってるから、私は最初から努力しな
いの。だって、どうせダメなら最初から何もしない方がいいじゃない!?無駄な努力はせ
ずに、気楽に生きて行けばいいのよ。『楽しいのが一番』じゃない?でも、神様って不公平
よね。何か1つだけできるのならいいのよ。でも何個も何個も、何でも上手にできる人って
いるじゃない!?私の知り合いにも、バイオリンができて、勉強もできて、いい大学行っ
て、話も上手で、そのうえスポーツも万能の人がいてね。そういう人を見るとすごいって思
うのよ、思うんだけどすごく悔しいのよ。なんで私にもそのうちの一つでもいいから、神様は
分けてくれなかったのかしらって。本当に神様って不公平よね」
これは私が22歳の頃に、40代の主婦から言われたこと。2人の子供の親でもあるのに、
この人は何を言ってるんだと思った。そしてつたない言葉だったかもしれないが、反論もさ
せてもらった。
生まれながらにバイオリンが弾ける人がいるものか。勉強ができる人がいるものか。
その上、自分は何の努力もせずに「不公平だ」などと、虫がいいにもほどがある。
もし、努力もせずに上手くなるなら、その方がよっぽど“不公平”ではないか。
そのようなことを、やんわり言うと今度はこう言われた。
「私だってやってみたのよ、ちょっとは。努力はしたの。でも駄目なものは駄目なの
よ。“センス”がないの」
「ちょっとは」って、そんなのが『努力』になるわけがない。できるようになるまで続けてこ
そ『努力』ではないのか。
「努力しないといけないくらいなら、できなくてもいいや」と言っているのと同じで、とても大
人の話とは思えない。
「だって、ちょっとやればすぐにできるようになる人もいるじゃない!?そんなのずるい。
私みたいに全然センスがなくて、努力してもダメな人もいるのに。私が(家庭教師で)勉強を
教えている小学生にも、何回教えてもダメな子がいてね。やっぱりどんなにやってもできな
い子っているのよ」
もう閉口するしかなかった。
あなたのような人が家庭教師なんて“冗談でも”やっちゃダメだ、と言いたかったが飲み
込んだ。
すぐにできるようになるのは、それまでの『貯金』があるからで、例えば計算の基礎がで
きている人が方程式を習えばすぐにできるようになるが、九九も足し算もあやふやな人な
ら、まず『計算力貯金』を増やしていかなくてはならないのだから、習得に時間がかかって
も当然である。
また、ずっと野球をやっていた子と運動などしてこなかった子が、同時にバレーポールを
習ったとすれば、前者がすぐに習得してしまうのに対して、後者は基礎体力や体の使い方
の段階から始めることになる。当然、両者が習得に要する時間と労力には相当の差が出
るはずだ。
そして、それは決して“不公平”なことではない。むしろ、当然で“公平”と言えるのではな
いか。
例えば、一生懸命に働いて貯金してきた人と、仕事も貯金もしてこなかった人がいるとす
る。貯金高が違うから「不公平」だと言う人がいるだろうか。「不公平」だから国から補助金
が支払われ、両者の貯金高が一気に同じになったとする。「これぞ平等だ」と言うだろう
か。
もしこんな怠け者にばかり都合のいい世界があれば、その世界はそのうちに怠け者だら
けになって廃退してしまうだろう。
しかし「勉強など必要ない」「努力してもダメな人もいる」などと、無責任なことを平気で宣
う大人は少なからず存在する。
これは一体どういうわけか?
心理学的に分析してみると、『心理的防衛本能』に行き当たった。
『心理的防衛本能』の一つに、“自己の優越を確認して、むやみな気分の落ち込みを防
ぎ、自殺を予防し遺伝子の保存を図る生存本能の一種”というものがある。
例えば、「自分はダメだー!」と思ってしまうと、自分に絶望し自ら命を断ってしまうかもし
れない。そうすると遺伝子は後世に残らずそこで消滅してしまうことになる。その危険性を
減らすためには、『自分は他者よりも優れている』と深層心理、もしくは表層心理で考える
必要がある、というわけだ。
「ダメだー」と思わせる要因は、生きていれば誰でも数限り無くある。
例えば、ある分野で自分も頑張っているが、どうしてもある人にその分野で勝てない、そ
れも遥かに及ばない、そのことが明確になった時。
そんな時、この人はこんなことを言い出す。
「あの人は確かに“あの分野”では素晴らしい。だが、少し常識に欠ける。また人付き合
いもよくない。性格も悪い」
客観的に見て、その人がそれほど常識に欠けるわけでも性格が悪いわけでもない。むし
ろこんなことを言う人の方が性格が悪いに決まっている。だが、そのように言われると周り
の人たちもなんとなく「そうだな」などと思い出すから不思議だ。(心理学的には「仮眠効果」
が関わっていると考えられる)
そして、「“あの分野”では確かに負けるけど、そんなのはどうでもいい。人付き合いや性
格の方がよっぽど大事だ。そして、“その分野”では自分の方が上だ」などと、考える。
そうして自己の優越を確認し、自らを『無意識のうちに』慰め満足させているのだ。
これで、絶望し自殺を図ることもなくなった。
その瞬間、『遺伝子』はさぞかし安心して、ほっと胸をなでおろしたことであろう。
遺伝子自体にそのような感情があるかどうかは別にして、これが『心理的防衛本能』の
一つだという。
「勉強なんて……」とか「努力しても無駄……」などと言う人についても、この『心理的防
衛本能』に照らして考えてみれば、なるほど納得がいくのだ。
つまり、「勉強ができない。その努力もしたくない。あー、自分はなんてダメな奴だ!」など
と“本当”に思ってしまえば、自らの不甲斐なさに絶望して“自殺”を図ってしまうかもしれな
い。それは『生存本能』に反することで、それに対して『防衛本能』が働く。
「勉強よりも、もっと大事なことがある。それは愛であり、人としての優しさだ。そして、自
分は人に優しくできる人間だから、勉強ができかったとしても問題ではない」などと考えれ
ば、自分の優越を確認でき生存が可能となる。
だが、このような「○○よりも△△の方が大事だ。だから○○なんてどうでもいい」などと
いう理屈は、一瞬共感してしまいそうだが、よくよく考えてつきつめていけば「たったひとつ
□□が一番大事で、それ以外のものは□□よりも劣っているからすべて必要のない、どう
でもいいものである」ということになり、全く整合性に欠ける。「テレビとビデオではテレビの
方が大事だから、ビデオは必要ない。だから捨ててしまえ。テレビと冷蔵庫では冷蔵庫の
方が大事で、冷蔵庫と家では家が大事、家と空気では空気が大事で、空気と太陽で
は……」ここまでくると、どちらも生存に欠かせないものなので、優劣などつけられない。こ
のようにつきつめていくと結局「最後に残った、たった一つ最も大事なもの、それ以外は不
要である」などということになる。
全く無謀な論理であることがお分かり頂けるであろうか。
『誤謬の集成』とはまさにこのことで、一つ一つを見れば確かに理にかなっているように
思えるが、全てをかき集めてみるとその矛盾に気がつかされる。
「勉強よりも愛の方が大事だ」
こう言われれば、なるほどその通りだ。
だが「だから勉強など取るに足らぬことだ」と言うのは、ちょっと待ってほしい。それ
は論理の飛躍であり、矛盾に満ちている。
しかし『脳』は、そこまで深く考えてしまうと自己の優越が確保できないとちゃんと分かって
いるのだろうか。それ以上の思考は無意識のうちにブロックさせてしまう。しかも、そのよう
な思考のブロックには常習性がある。ついには考えようとしても考えることができなくなって
しまうこともある。
“考えてるつもり”の『思考の停止』は、脳の活性が失われているサインだと言われる。つ
まり脳の神経細胞をつなぐシナプスが大幅に減少し、脳内の電気信号が円滑に流れてい
ない状態だ。
「努力しても無駄……」というのも同じで、「世の中にはそういう人が必ずいて、自分はそ
の中の一人。私だけじゃあない。他にもたくさんいる。だから気にする必要はない。それよ
りも自分は性格がいい。人付き合いもいい。人に対して優しい」などと考える。それがたと
え『自分が気に入った人に対しては優しい』のであっても『脳』はそれ以上の思考を拒否す
る。『自分が気に入らない人』に対しては鬼のようにつらく当たっていても関係ない。その場
合は「相手が悪い」と考えればいい。だとすると、『性格のよさ』に他者との『優劣』など生じ
ていない(好きな人に優しいのは誰でも同じ)のだが、そこは思考のブロックをかけて気が
つかぬフリをし、『心理的優越』を確保している。
この場合、自分の中での相対的比較においては、そう思うしか優越を確保する材料がな
いとも言える。
例えば、社会が40点で、他者との相対的比較では低いのだが、他の4教科が全て10点
台だとすると、自分の中で相対的に比較すると「社会が得意科目」ということになってしまう
ようなものだ。
しかし、どんなに心理学で説明がついたとしても、それは『生存本能』『防衛本能』によ
る“言いわけ”でしかないのだから、根本的には「やらなくてもいい。できなくてもいい」など
と言わず『努力』して、“言いわけ”などしなくてもすむようしたいものだ。
その『努力』こそが『人生の真の楽しさ』につながるものなのだから。
だが、これは“言葉”で聞いても分からないことかもしれない。(理屈では“分かった気”に
なるかもしれないが)
私は1996年に初めて携帯を持った。やっと無料で売られ(?)始めたころだ。だがその
頃、私は「携帯なんかいらない」と言っていた。これまで携帯がなくても、不便な思いをし
たことがなかったからだ。だから高いお金を払ってまで買おうとは思わなかったし、0円に
なってからもしばらくは携帯に興味を示さなかった。同僚であり友人でもあったT氏に、半
ば強引に持たされたのが最初だった。だが、いったんその利便性を知ると、もう手放せな
くなる。携帯を家に忘れてしまった時の不便なことといったら。それまでは当たり前だった
『公衆電話さがし』がひどく面倒くさい。
その後携帯に『メール機能』がついた時も同様であった。機種変更をする時に「メールは
いらない。話せればいい」と言って、0円の機種を選んだ。高い金を払ってまで『ポケベル』
のようなこと、するはずがないと思っていたのだ。そのうちメール機能付きの携帯ばかりに
なり、機種変更の時に“しかたなく”0円で購入すると、またこの利便性に驚嘆させられる。
電話では「相手が今なにをしているか」と気を使うが、メールならその必要がない。送られ
た方にしても、すぐに応対しなければならない電話よりも、忙しい時などには後回しできる
メールは都合がいい。今では、携帯で話すことの方がまれで、ほとんどはメールで済ます
ようになった。
『カメラ』も同様だ。「カメラなんて……」と言っているうちに、カメラ付きの携帯しかなく
なった。“しかたなく”カメラ付きの携帯に機種変更すると、その利便性に驚嘆する。そして
今では携帯で写真を撮りまくって楽しんでいる。ちょっと前(2007年4月)にまた機種変更し
たのだが、その時の選考基準トップにとうとう「カメラの性能」がきてしまうほど。それまで
の60万画素では物足りなくなったのだ。
そして今や携帯は『お財布機能』や『○○機能』と多くの機能が付加している。だが今の
私は、「そんなのいらない」と思っている。
なぜか。
その利便性を“知らない”からである。
理屈では分かっている。おそらく『メール』や『カメラ』と同じように、使えばその利便性に
驚嘆するであろうと。でも所詮は『理屈でしか』分かっていないのだ。
よく犯罪を減らすために『教育』が必要だと言う人がいるが、殺人を犯した人が「人殺し
はいけないことだ」と知らないとでも思っているのだろうか。望まない妊娠を減らすために
『教育』が必要だと言う人は、望まない妊娠をした人に『性の知識』がなかったとでも思って
いるのだろうか。みな「理屈では」分かっているのだ。「理屈で」分かればうまくいくというの
なら、とっくの昔に犯罪も望まない妊娠も、戦争ですらなくなっている。
理屈で分かっていてもダメだ、というのはもっと身近にもある。
「テスト前だから勉強しなくてはならない」のは分かっているのに、テレビの前から離れら
れなかったり、マンガを読んでしまったりする。
こんな人は、しょせん『理屈でしか』分かっていないのだ。
実際に『体験』して『実感』するまでは、本当の意味で分からない。
だから、入試に失敗した時になって、やっと「もっと勉強しとけばよかった」などと言うよう
になる。
大人になってから、「学生時代にもっと勉強しとけばよかった」と思う人が多いのも同じこ
とだ。
「そろばんには、こんなに良いところがある」とか「ピアノは脳の活性化にとてもいいよ」と
か「英語ができると世界が広がるし、なにより外国語の勉強って楽しいよ」などと、いくら言
葉で聞いてもピンとこない人の数の方がはるかに多いのも、また「○○なんてできても意
味がない」などという言葉が多くの人の共感を呼んでしまうのも、こう考えればなにも不思
議なことではない…………。
4.壊れた脳
さて、山田きく子という女性をご存じだろうか。
2004年のNHKスペシャルで放送された彼女の半生は、私に驚きを与えた。
ちなみに私は『脳』について、18歳大学入学時から独学で勉強している。高校時、睡眠
を極端に削った勉強を結局3年間続けたが、その代償として2年目を迎える前には体調
が悪くなり、最後の1年間は集中力すらなくなっていた。だが病院に行っても「異常なし」と
言われる。親からも「うそ」だの「怠け病」だのと言われ、限界を超えた努力をして「怠けよ
うとしている」と言われては悔しいので、その原因を自分で突き止めようとしたのがその
きっかけ。体を調べても異常がないのなら、脳に異常があるとしか考えられず、脳につい
ての本を読みまくった。もちろん高校時にも「睡眠が必要」なことは『理屈では』分かってい
たのだが、つい勉強を優先させてしまった。今にして思えば大失敗である。2、3日なら大
丈夫だが、それ以上は無謀だった。たとえば『セロトニン』。これはシナプスで電気信号の
やり取りをする際に不可欠な脳内物質だが、これは睡眠時に補給される。これを使い果
たすと集中力が極端に減少する。この1点だけでも、『睡眠』が脳の健康維持にどれだけ
大切か分かるはずだ。
今でも『脳』とタイトルのついた番組は必ず録画して見るようにしている。この10年で、脳
神経科学は驚くほど進歩し、今後は最新機器の開発によってさらに進歩するという。普段
NHKスペシャルは見ないのだが、この時は『脳』のタイトルに惹かれて録画しておいた。
本題に戻る。
彼女は医師国家試験の直前に、脳出血で倒れ『モヤモヤ病』と診断された。その後医師
になってからも、脳出血と脳梗塞を繰り返し、手術で脳の一部を切除されたという。
『モヤモヤ病』とは、脳血管が通常よりも細くて弱いために脳出血や脳梗塞を起こしやす
い病気だ。脳の血管が『モヤモヤ~』としているのと、頭が『モヤモヤ~』とするのとで『モ
ヤモヤ病』と言うらしい。勝手にそう呼んでいるのではなく、正式な病名である。
彼女は2回目の脳出血の時に、右脳の一部を切除した。その影響で、様々な後遺症が
表れた。
『左半身の麻痺』や、『左側の視界に注意が向かない』『物が立体に見えない』『過去の
記憶や経験の削除』『記憶障害』など。医師からは「余生は趣味を楽しんで……」と言われ
たほど、ひどいものだったそうだ。
30代前半の若さで「余生」と言われて、ひどくショックだったという。
山田さんは、自身が医師であったが専門は整形外科。だが、その時から脳に関するあら
ゆる書物を読みあさり、自らの病気と対峙する決意を固めた。
そして、自分の病気を、医師として記録し続けた。
最初は歩いたり階段を上ったりすることすら困難だったという。
どのように体重移動すればよいとか、どのタイミングで足を出せばよいとか、そのような
ことは“経験による記憶”なので、その記憶がインプットされていた場所が外科的に切除さ
れてしまっては、ただ“階段を上る”ことすら困難になってしまったとしても不思議ではない
のだそうだ。
当時の心境を、彼女はこう書き記している。
「自分の(5歳の)息子が真っ白な脳に様々な記憶や経験を刻みつけていくように、私も
残りの脳に1から記憶を刻みつける。息子と競争だ」
強い人だ。
最新の研究によると『脳の神経細胞も分裂し、数を増やすことができる』(これまでは「脳
の神経細胞は死ぬ一方で再生はされない」と考えられてきた)のだそうだ。(2004年9月放送
NHKスペシャル「老化に挑む:あなたの脳はよみがえる」による)
ニューロンが減り続けると、脳が萎縮し、『アルツハイマー』などを引き起こす。これは『老
化現象』によるものなので、仕方がないと思われていたのだが、どうやら『予防可能』なも
のだというのだ。
実際、老人ホームで「“そろばん”を取り入れて、ボケの症状が改善した」というお年
寄りは一人や二人ではないらしい。
「悪化を防げればいい」と思って取り入れたのに、「改善」までした、ということで最近では
メディアでも頻繁に紹介されている。
ほかにも『文章の音読』『絵画』『音楽』など、脳を活性化させるものであれば一定の効
果が出ているそうだ。
山田きく子さんの場合も、毎日リハビリを続けるうちに、切除された脳の役割を残りの脳
が“代行”するようになり、ついには日常生活も営めるようになった。
脳はその場所によって担当区分(足を動かすとか指を動かすとか)が決まっている。だ
からある部分が損傷すると、その担当の『仕事』がこせなくなるのが通常だ。だが訓練しだ
いで、残りの脳が損傷を受けた部分の代行をしてくれるようになるのだという。これは脳の
専門家でも、最近になって分かったことだそうだ。
さらに、彼女の場合は日常生活を取り戻しただけではない。自分の脳を材料に医学的
研究を続けて、それを一冊の本にまとめるにまで至ったのだ。その内容はとても高度で、
専門家にも非常に参考になるものだったという。
医師から「余生を楽しんで……」と言われた人が、である。
彼女の場合、リハビリが終わったと思ったその矢先に再び脳出血を起こし、3度目の手
術を受けた。そのことで、取り戻したはずの機能が一部失われた。そして今もなお、いつ
出血を起こすのか分からない状態が続いている。それはつまり、今の努力がまたいつ『無
に帰す』のか分からない状態だということ。
それでも腐らずあきらめず、希望を持ち続けて人並みならぬ努力を、今なお続けている
のである。
私には想像もできない努力。
「生まれながらに才能がないから、努力しても無駄……」などと言う人間は、この事実を
知ってもなお、考えを変えぬつもりだろうか。
“完全なる脳“を持ってなお『言いわけ』ばかりに終始する。それでいいのだろうか。その
ような人に、私は怒りさえ感じてしまうことがある…………。
5.「勉強なんて役に立たない」と言う人
ある人がこう言った。
「学者ってのはよっぽど暇人ね。あんな役にも立たない研究ばかりして、給料もらえて、
いい身分だわ。勉強なんてできない農家の方がよっぽど役に立ってるじゃない。私たちが
食べる米や野菜を生産してくれてるんだから。農家の方がよっぽど生産的よね」
「そう言われてみれば、ほんとにそうねえ」と言うのは、ちょっと待ってほしい。
品種改良をはじめ、化学肥料や農薬を減らす研究などによって効率的な生産が可能と
なり、私たちの腹を満たしてくれることにも一役買ってくれているのではないか。
『食』だけではない。
発光ダイオードの開発も、コンピュータの研究も、私たちの生活に多大なる恩恵を与えて
くれているではないか。
例えば、携帯電話が誰にでも持てるようになったのも『研究』のおかげだ。
『研究』の基礎となるのが『勉強』であり、『基礎知識と基礎学力』であるのは今さら言うま
でもない。
それとも、飢饉が来れば何十万人も餓死者が出ていた、江戸時代以前の日本に戻
ってそれでよいのだろうか。
何かと言えば「昔はよかった」と言う人がいる。「昔は少年による凶悪事件は少なかった」
「昔はもっと人情があった」「昔はもっと……」。
だが本当にそうだろうか。こんなのはただの『錯覚』だ。統計を見てみても、少年による
凶悪事件は減少の一途をたどっている。メディアが発達し、日本のどこで起きた犯罪も放
送されるから、「増えた」と錯覚しているだけだ。
また、「昔はよかった」「今の若者はなっていない」などというのは一種のノスタルジーで、
5000年前から同じセリフが繰り返されている。古代エジプトの遺跡に「今の若者はだらし
ない」との記述がされているのは有名な話だ。この5000年の間に、われわれは「だらしな
く」なり続けているのかといえば、そうではない。これは「ただの錯覚である」という何よりの
証明である。
「何かと言えば」ときたので、ついでに“何かと言えば”「犯罪は罰するだけでなく、そこに
至った心理や経緯を考えなくてはならない」「特に未成年の場合は、罰するよりも、その人
が置かれた環境を考える必要がある。周りの大人が悪かったのだ。大人の責任だ。あな
たも大人でしょ。あなたの責任でもあるのだ」などと、まるでその犯罪を犯したのは当然の
流れで、周囲の人間や環境がすべての責任であり、犯罪者の心のケアをしてあげなくては
ならないというようなことを言う人がいる。そしてそう言った後の彼(もしくは彼女)の顔が、
得意満面なのだ。
その理屈からいくと、つじつまの合う心理状態さえあれば、犯罪を犯してもいいことにな
る。
だが人を殺せば、そこにどんな理由があろうと『人殺し』だ。法のもとに罰せられなけれ
ばならない。私は、たとえ未成年だったとしても、成人同様に罰せられるべきだと思っ
ている。周りの小学生や中学生・高校生の多くも、同様に考えている。「子供でも人を殺し
てはいけないことくらい分かっている」「バカにしてほしくない」とはっきり言っている。
子供は大人が思うほど子供ではない。
それにアメリカでの最新研究では、『道徳教育』は犯罪を減らす効果はほとんどない
のだそうだ。先にも述べたが、所詮『理屈で』分かってもダメなのだ。
では、どうすればよいのか。実際に犯罪を減らしている理論に『割れ窓理論』というのが
ある。
簡単に説明すると、「割れた窓が放置されているような場所で犯罪は多発する」というこ
とだ。つまり「犯罪はその“機会”“場所”があって初めて生じる」というわけ。
たとえば「こいつなぐってやる」と思っても、他の人の目があるところでは実行しにくい。つ
まりこの場合、適当な“機会”“場所”がないから犯罪は生じなかったことになる。
同様に、「銃で撃ち殺してやる」と思っても、銃がなければそれもできない。もし持ってい
たとしても、公衆の面前では実行しにくい。
ニューヨークでは『道徳教育』にいくら力を入れても、犯罪件数は増えるばかりであった。
そこでこの『割れ窓理論』を導入した。具体的には地下鉄の落書きをキレイに消した。監
視カメラの数を大幅に増やした。つまり『割れた窓』が放置されているような、人の目が届
いていない、または無関心な場所を極力減らしたわけだ。落書きが放置されていると人の
関心が薄いと思われて、犯罪を誘発する。人の目が光っていると思えば、犯罪は抑制され
る。監視カメラの効用も同様だ。これでも犯罪0にはならないが、三分の一程度に激減し
たというのだから、その効果はすさまじい。
これもまた『研究』の成果だ。
「あっそ。じゃあ『研究』は頭のいい人に任せて、私はその恩恵だけを手にするわ」
次に聞かれるセリフである。
それならそれでいい。
だが、『恩恵だけは手にする』と言うなら、「勉強なんて役に立たない」などと言わないで
ほしい。
少なくとも、国の大事な宝である子供の前で、そんなことを言うのは間違いだ。
国際学力調査で、日本の子供たちの学力がかなり低下していることが明らかになって、
にわかに問題になりつつある。
だがそれ以上に問題なのが、「何のために勉強するのか分からない」という子供が増え
ていることではないか。
学力の二極化が相当に進んでいて、できる子も確かにいるのだが、できない子はとこと
んできない。それは教える者の立場として、確かに感じていたことである。それが学力調
査の結果裏付けられたと言っていい。
「会社は人なり」と言う言葉があるが、同様に「国は人なり」だ。一人ひとりの資質が落ち
れば、それは国力の低下を意味する。学力とて『資質』の一つだ。学力だけではないが、
だからと言って粗末にしてよいものでもない。
学力を軽視するような国は、そのうち衰退するのではないか。
私は小学低学年の時、「日本は戦争で負けた」と知り「日本ダメじゃん」とがっかりした
が、直後に「日本のGNPは世界第2位である」と習い、「戦争で負けたのに?日本すごい
じゃん!」と日本人に生まれたことを嬉しく思った。日本人として、日本を誇りに思った瞬間
だ。
私たちが小・中・高生の頃、未来は明るいものだった。誰もが未来に希望を抱いていた。
バブルが弾け、暗い時代がくるとは、誰も考えていなかった。(バブルそのものがまだな
かった)
未来というのは誰にも分からない。
その未来に希望を持てる国。日本をそのような国にしたい。
「未来とは真っ白なキャンパスのようなもの。そこにどんな絵を描くかは自分しだい」と、
よく言われる。
日本がどのような国になるのかも、そうしてみると、我々しだいなのではないか。政
治家や官僚のせいにばかりしていてはいけない。
その意味でも、我々皆がこの日本国を背負って立ち、そして将来は子供たちが成長して
背負って立つその一員になるのだと自覚して、責任ある言動をとるよう我々個々人が肝に
銘じ、自戒する必要があるのではないだろうか。
2007年9月吉日
M.D.学修院
代表 門田有示
追記:この「将来方程式なんて使わない!?」は
2005年に書いたものを、2007年9月にホームページ用に編集
したものです。サブタイトルの「……って言うじゃない?」は当時ブレイクした波田陽区ギター侍のセリフ。
今となっては懐かしいですね……。
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